ヒトは非合理的である。
2017年のノーベル経済学賞は、行動経済学の権威である、シカゴ大学のリチャード・セイラー教授が受賞しました。受賞理由は行動経済学の理論的発展への貢献です。そのセイラー教授の行動経済学理論の中核をなすのがナッジ理論であり、著書である「実践 行動経済学」(原題: Nudge)も大きな話題となりましたが、ここで改めて簡単におさらいしたいと思います。
行動経済学(Behavioral Economics)は、その名のとおり経済学のひとつであり、2002年にプリンストン大学のダニエル・カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞して以来、注目されるようになりました。従来の経済学との違いは心理学的に観察された事実を取り入れている点であり、そのため心理経済学(Psychology Economics)とも言われます。
従来の経済学は、ヒトは合理的かつ功利的な判断をする、すなわち全ての選択肢の中で最も得するものを選択することが前提となっています。しかし、現実にはそんなことはあり得ません。そもそも人間は、全ての選択肢の情報を把握しているわけではなく、これを情報の非対称性といいます。さらに、判断するための時間は有限であり、そこには必ず主観的な選択が発生します。そして何よりも人間は感情に左右される生き物であり、必ずしも理性的な判断をするわけではありません。
そこで、従来の経済学では説明できないヒトの非合理的な行動について、心理学的な視点を取り入れながら理論的に説明しようとする試みがなされるようになったわけです。
行動経済学の代表的な理論にプロスペクト理論(Prospect theory)があります。これは不確実性のもとに行われる意思決定のモデルのひとつで、人間は利益を得られる場面では「確実に獲得すること」を重視し、逆に損失を被る場面では「最大限に回避すること」を重視する、つまり「得をするよりも損をしたくない」という行動心理を理論化したものです。
プロスペクト理論がよくわかる実験があります。「100%の確率で90万円もらえる」「90%の確率で100万円もらえる」という二つのくじがある場合、多くの人が前者を選びます。どちらの期待値も90万円ですが、確実に90万円もらえるほうを選択するわけです。一方で、「100%の確率で90万円を失う」「90%の確率で100万円を失う」という二つのくじがある場合、多くの人が後者を選びます。どちらの期待値も-90万円ですが、確実に90万円を失うよりも、100万円を失うリスクを負ってでも損をしない10%の確率に望みをかけるわけです。このような行動は損失回避バイアスと呼ばれています。カーネマン教授は、このプロスペクト理論でノーベル賞を受賞しました。
選択アーキテクチャ。
そしてナッジ理論(Nudge Theory)もまた、行動経済学を代表的する理論のひとつです。ナッジ(Nudge)は直訳すると「ヒジでちょんと突く」という意味で、ナッジ理論は、小さなきっかけを与えることで人々の行動を変える戦略理論です。
ナッジ理論の有名な事例として「トイレのハエ」があります。オランダのアムステルダムのスキポール空港にある男子トイレの小便器に描かれたハエの絵は、利用者の「標的に命中させたい」という心理を喚起することで尿の飛散を抑制し、清掃費を80%削減させたと報告されています。
ナッジ理論は、選択アーキテクチャ(Choice Architecture)という概念のもとに構築されています。これは「選択者の自由意思にほとんど影響を与えることなく、それでいて合理的な判断へと導くための制御あるいは提案の枠組み」であると定義されています。簡単にいえば「知らぬ間に最良の選択をさせる仕組み」です。
また、選択アーキテクチャはいつ必要されるのかに対しては、「判断が難しくてまれにしか起こらず、フィードバックが得られず、状況の文脈を簡単に理解できる言葉に置き換えるのが難しい意思決定をするとき」と説明されています。要するに「考えても最良の選択の意思決定ができないとき」であり、その際には「知らぬ間に最良の選択をさせる仕組み」が必要だということです。
「実践 行動経済学」では、「トイレのハエ」以外にも、以下のような事例が紹介されています。
調査によると、人々がカフェテリアでデザートを取る量は、他の料理とデザートとの相対的な位置関係(場所)に影響されることが示された。「置かれた場所によって食べたくなるデザートの量が変わる」という点について合理的な理由は特にないものの(実際、私たちの多くは自分がこうしたトリックに影響されないと思いたいはずだ)、これはどうやら広くあてはまる作用のようだ。
実践 行動経済学
労働者は、たとえ年間ベースでは同じ額だとしても、月払いの場合よりも隔週払いの方が、給与のうち貯蓄に回す割合が増えるようだ。こうした現象に対する説明として、人は隔週払いであっても1か月単位でお金の使い道を考えるため、支払いの3回ある月が1年に2回あると、そのぶん貯蓄にまわす額が多くなるという仮説がある。興味深いことに、英国に比べ米国の方が、隔週払いの給与制度がはるかに一般的だと思う。僕の知る限り、英国では、ほぼ例外なく給与は月払いだ(また、税金システムもそれに合わせて設定されている)。
実践 行動経済学
ナッジの拡がり。
行動経済学ならびにナッジ理論は、ヒトの非合理的な行動を理論的に説明する学問ですが、本来の目的は説明することではなく、それを通して問題解決をすることにあります。
「行動デザインって?」でも触れたとおり、社会の多くの問題は、ヒトの行動によって引き起こされています。そのヒトの行動を意図的に変えることができれば、多くの問題が解決されるはずです。このように、なんらかの問題解決のためにヒトの行動や習慣を変えるよう意図的に仕向ける企てのことを行動デザイン(Behavior Design)1)行動デザインって?といいます。つまり、ナッジ理論は行動デザインの手法のひとつと言えます。
その意味では、すでに存在するナッジや選択アーキテクチャの事例を分析し、知識として体系化することも重要ですが、その体系化された知識をもとに、社会問題の原因となっているヒトの行動ひとつひとつをどうナッジしていくかというアイデアを、世界中のみんなで考え、実践し、共有することがより重要です。当然ながら、そのための基盤や枠組みも必要となります。
著書「実践 行動経済学」では、ナッジリストを増やすべく、公式サイト「Nudge」にアイデアを寄せてもらうよう呼びかけています。また、欧米諸国では政府や自治体がナッジ活用を主導し、成果をあげています。
たとえばアメリカでは、老後資金を蓄えるための確定拠出型年金プランへの加入率の低さが問題となっていましたが、初期設定を「加入しない」から「加入する」に変更することで、加入者を増加させることに成功しました。ヒトには無意識に現状維持しようとする性質があるため、選んでほしい選択肢をデフォルトにする選択アーキテクチャが功を奏するというわけです。
またイギリスでは、ナッジ・ユニットと呼ばれるBehavioral Insights Team(BIT)を2010年に立ち上げ、公共サービスをコスト効率的かつ市民が利用しやすいものにする、人間の行動に関するより現実的なモデルを政策に導入して成果を改善する、人々が自分たちにとってより良い選択ができるようにする、ということを目的にナッジ活用を推進しています。なおナッジ・ユニットは、さまざまな実証実験で成果をあげ、現在は世界各国や国際機関を顧客とするコンサルティング会社としてグローバルに活動しています。
日本でも2017年4月に、日本版ナッジ・ユニットであるBEST(Behavioral Sciences Team)が環境庁により設立されました。BESTは、関係府省や自治体などによる産学官連携の取り組みで、ナッジを含む行動科学の政策への活用と、行動変容の促進を通じたイノベーションの創出や実装に関する実証事業を推進しています。また、行動経済学会と共同で、ナッジに関するコンテストやアイデアソンなどの開催も行なっています。
このように、ナッジ理論は机上の学問の枠を超え、実際にヒトの行動を変容させ、社会問題を解決する実学としての拡がりを見せつつあります。
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須川 敦史
UX&データスペシャリスト
クロスハック 代表 / uxmeetsdata.com 編集長
脚注
1. | ↑ | 行動デザインって? |